植村明美
新一万円札の肖像画に決まった当初よりも、大河ドラマ「青天を衝け」が始まり、渋沢栄一についての関心が急に高まっているような気がします。
渋沢栄一のことは知っていましたが、何をした人かと言われると、恥ずかしながら、「田園調布を作った人で、近代日本の経済の基礎を作った人」という感じの認識しかなく、全くわかっていませんでした。
今回、年表や、会社の変遷などで栄一の業績を調べてみると、同時に多くの会社に経営者として関わっていたことになり、気が遠くなりそうな忙しさだったのではないかと思います。
ものすごいバイタリティと決断力と先見の明をもっていた人物だったのでしょう。
大河ドラマですべてを見たいという方も、「この程度なら参考程度に見てもいいよ」とこの後記事の続きをご覧いただければ幸いです。
澁澤栄一の生涯をざっくり説明しますと、天保11年2月13日(西暦:1840年3月16日)、現在の埼玉県深谷市の血洗島というところに生まれました。
後に富岡製糸場の初代場長を務めた尾高 惇忠(おだか あつただ)は従兄でありました。
尾高家はこのあたりの名主の家で、栄一の父は尾高 惇忠の母の弟でした。
父から学問を教えられ、その後、従兄の惇忠が開いていた私塾のようなところで論語などの講義を受けます。
尊王攘夷の思想を持った栄一は、他の従兄らとともに、挙兵して高崎城を制圧する計画を立てますが頓挫します。
その後、一ツ橋家の家臣として取り立てられ、武士となった栄一は、一ツ橋家の財政を立て直したことで、次第に重要なポストに抜擢されていきます。
そして水戸藩から一ツ橋家に養子に出され、最後の将軍となった徳川慶喜の弟で後の水戸藩主となる徳川昭武に随行した栄一は、パリ万博を見学するほか、欧州を視察。海外の事情を広く知る機会を得て帰国したのち、静岡に商法会所(今でいう銀行と商社を併せたような株式会社のようなもの)を設立しました。
明治政府になってからは、政府から乞われ大蔵省で働きます。
大蔵省を退官したのちは、民間人として、「第一国立銀行」の設立に関わり、総監役(後に頭取)に就任。
その後、500もの企業の設立などに関わり、約600もの社会公共事業、福祉・教育機関に関与しました。
あまりにも多くの企業や公共事業に関わっていたので、大きなところや身近なところを確認したいと思います。
グッドクロスは印刷会社ですので、関係の深い製紙会社と印刷会社を見てみましょう。
印刷と関係の深い製紙会社ですが、栄一は現在も続く製紙会社を作っています。
抄紙会社から始まった製紙会社は、その後王子製紙となりました。
そのほかにも四日市製紙、中央製紙などを設立していて、統合されるなどして現在の王子ホールディングス㈱に続いています。
そして、印刷業ですが、1876年に佐久間貞一らが秀英社という活版印刷の会社を興しました。
この会社は渋沢栄一の援助で製紙会社東京分社印刷工場の印刷機械を借りて操業していました。
秀英社は後に日清印刷と合併し、大日本印刷となりました。
また、第一国立銀行内にあった王子製紙の東京分社印刷工場というところが後に独立し東京印刷(株)という会社になりましたが、こちらの設立にも関わり、東京印刷は東京証券印刷となり、その後資産売却し、大日本印刷に統合され現在に至ります。
他に、現在の会社名で言いますと、りそな銀行、みずほ銀行、三井住友銀行、北海道拓殖銀行、秋田銀行、東京海上日動、商船三井、日本郵船、JR各社、東京メトロ、KDDI、東洋紡、三井製糖、キリンホールディングス、アサヒホールディングス、サッポロホールディングス、太平洋セメント、東京ガス、大阪ガス、北海道ガスなどガス会社各社、東京電力など電力各社、東京証券取引所など各取引所、東急不動産、東急電鉄、帝国ホテル、電通、博報堂、日本放送協会など、本当にきりがないほどの会社の設立に関わっています。
しかもどの会社も日本を代表する大企業ばかりです。
また、一橋大学、日本女子大学、二松学舎大学、東京女学館など、学校の設立にも尽力しています。
どうしてこんなすごい人のことを良く知らなかったのか、不思議に思えてきましたが、一説によると、栄一は表に名前が出ることを好まず、どちらかというと経済人ではあるけれど、政治家や役人としての気質で働いていたからとも聞きます。
大河ドラマ=真実では決してないとは思いますが、この後のドラマでも色々なことを知ることができるかなと思います。
出典:澁澤栄一記念財団HP
https://www.shibusawa.or.jp/index.html
さいごに
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