内田絵梨
癖とは恐ろしいもので、知らず知らず人を不快にさせてしまうことが多々あります。
私も自覚しているものでは関節を鳴らす癖があり、直そうとは思っているのですが、旅行中同室で寝ていた友人に「寝ながら指を鳴らしていて怖かった」と言われ挫けそうになったりしております。寝てる時ってどう気を付ければよいの・・・orz
さて、「無くて七癖有って四十八癖」ということわざをご存知でしょうか。
人は多かれ少なかれ癖を持っているという意味ですが、なぜ「七」と「四十八」なのか考えてみました。
なぜ「無くて七癖」なのか?
読んで明快、「無くて」と「七癖」で頭韻を踏んでいます。語感が心地よいですね。
また「七」は「七福神」や「七夕」、「七草」など古くからなじみのある数字です。
それにしても、「無くて七癖」とは割と多いように思いませんか?
私なんぞは「七つも癖があるんかい!?」とツッコミを入れたくなってしまいます。
この「七」という数字。認知心理学ではマジカルナンバーと呼ばれております。
何がマジカルなのか。
例えば目の前に2個のリンゴがあるとしましょう。
「何個リンゴがありますか?」と聞かれると皆様は恐らく一瞬で、直感的に「2個」と答えられるはずです。
では7個だとどうでしょう?
一瞬で答えらるかどうか、少し不安ではないですか?
個人差はありますが、物の数を直感的に認識できる数は7±2とされています。
5つから9つの間なのですね。
それ以上は、脳は「たくさん」と認識するそうです。
どんな人でもたくさんの癖を持っていると暗に示しているとすれば、おもしろくないでしょうか。
なぜ「有って四十八癖」なのか?
「七癖でも多いのに四十八癖って・・・!」と白目をむいてしまいそうな数ですが、四十八には何か意味があるのでしょうか。
調べてみると古来の日本では四十八は「縁起の良いたくさんの数」という意味を持っていたそうです。なるほど!縁起を担いでの四十八癖なのか!
しかし、なぜ縁起が良いとされていたのかよく分からないですね。
私のリサーチ力では「これだ!」と思える理由は分からなかったのですが、こじつけで色々と考えてみたいと思います。
その1 四十八願
仏教用語に「四十八願」という言葉があります。法蔵菩薩が仏になるための修行の際に立てた48個の誓いです。
「たとえ私が仏になることができても、私の国に地獄・餓鬼・畜生の三悪道の者がいるとするならば、私は決して仏になりません! 」というような誓いがずらずらずらっと48つ。「逆によく48個も思いついたな!」と感心せんばかりですが、法蔵菩薩が後の阿弥陀如来ということをふまえると「さすが」の一言です。
「阿弥陀如来様にまつわるありがたい数じゃあ!」ということで四十八は縁起の良い数字なのですね。
「四十八手」や「赤目四十八滝」、江戸時代の町火消しの組数、花札の数などもこれにあやかっているのかもしれません。
その2 いろは歌
すべての仮名を重複させずに作られたいろは歌は、「ん」を足すと48音でできています。
日頃から使っている仮名の数は、なじみがあり特別な意味を持ったのかもしれません。
そういえば、五七調に整えられたいろは歌を、あえて七文字ずつ区切ると最後の文字が「とかなくてしす(咎無くて死す)」という言葉であるという話しは有名ですが、七文字ずつ区切るという部分に着目すると「有って七癖無くて四十八癖」の数との偶然の一致にわくわくしますね。(完全にこじつけであることをご了承くださいませ)
その3 小集団の限界
日本大百科全書の小集団の項にはこのように書かれています。
小集団の限界は確定できないが、50人を超えると上記の性格は不明瞭(ふめいりょう)になるとされ、また小集団はより大きな集団の一部である場合が多く、内部にもより小さな下位集団subgroupを含むことが多い。
つまり、集団においては50人を超えると個々を区別し辛くなるのですね。確かに小学校の1クラスの上限は40人ですし、あんまり多いとクラスメイトを覚えるまでに相当時間がかかってしまいそうです。
もしかしたら小説や漫画などでも1作品におけるキャラ付け・属性の限界はだいたい50くらいなのかもしれません。
そう考えると、癖を見分ける限界も50くらいが上限・・・なのか?
その4 高度合成数
自然数でそれ未満のどの自然数よりも約数の個数が多いものを高度合成数と言います。
48も高度合成数なのです。数えてみると1、2、3、4、6、8、12、16、24、48の10個の数で割れるのです。すごい!
古来も今と変わらず1年を12ヵ月に分けて過ごしていたので、その倍数である48も扱いやすい数字だったのかもしれません。
まとめ
人には様々な癖がありますが、有っても脳が「たくさん」と認識する「七癖」であるし、無くても「たくさんの数」という意味の「四十八癖」。
少ない人も多い人も結局たくさんの癖を持っているということですね。
習慣と癖の線引きは難しいところですが、人を不快にさせない、好ましい癖を身につけられるよう気を付けたいものです。