植村明美
青い鳥
親孝行ビジネスとは
「孝行をしたい時には親は無し」
よく耳にする言葉です。
そういったことに実感の無い若いうちに聞いても
誰もが心のどこかで
漠然とではあっても
出来ればそういう事態は避けたいと思っているのではないかと思います。
だからといって、さあ、親孝行をすると言っても
何をすればいいのか
とまどってしまう方も多いかもしれません。
私たちは、親孝行ビジネスをスタートさせた会社があることを知り、
代表の方にお話を伺ってきました。
代表取締役の中村昌史氏。
先に申し上げますと、
こういう若い方がいるなら日本の将来は大丈夫だなと思えるような、そんな方でした。
――親孝行の会社と聞いて伺いましたが、どんなことをされている会社なんでしょうか。
一人一人に合った親孝行を提案させて頂く仕事をしております。
【親孝行には正解がない】
だからこそ、お客様とお客様のご両親の関係についてヒアリングさせて頂く事で、その人に合った親孝行を提案できると思っております。
――具体的にはどんなサービスをしていくのでしょうか。
親孝行プランの企画と実行のサポートになります。
例えば、両親の金婚式・銀婚式にお祝い事を企画したり。
ご両親に結婚式をプレゼントする。というのも有りですね。
基本的には子供は親の結婚式を見た事がないので。
家族写真を撮ったり、動画を撮ったりするのも提案の一つになります。
私の家は家族写真がなかったのですが、2年前の大晦日にプロカメラマンに来ていただいて撮影をしました。
みんなで写真を撮ろう。と自分から言うのが照れくさくて言いだせなくても、プロカメラマンが来てくれてお金も払ってるという事になれば、仕方ないと思いながらもカメラに顔を向けてくれるんですよね。
初めは嫌だと思っていても、後から思い返してみると良い想い出になったりします。
今ではこの写真が家族の宝物になりました。
あとは、家系図の作成や、家紋を入れたグッズの作成などを考えています。意外と、ご自身のお家の紋を知らない方も親御さん世代でもいらっしゃるんですよ。
親孝行の形は人によってそれぞれだと思いますので、ぴったりくるものを提案していきたいと思います。
――どうして親孝行をビジネスにしようということになったんでしょう。
中学・高校とずっと反抗期で、親と仲良くなかったからです。
福岡に居るのが嫌で東京の大学に進学しました。
一人になってみて気付いたんです。
これまで親にどんだけ甘えていたのかと。
大学の長期休みの度に実家の福岡に帰り、親と少しづつ話をするようになりました。
その時にふと思ったのです。
親が喜んでくれる顔を見たい。
親孝行をする事=自分の幸せを追求する事をビジネスにすれば、
どんなに辛い事があってもやっていけると。
起業への道のり
――当初から起業しようとお考えだったのですか。
中学生の頃から社長になりたいとは思っていました。でも、まあ、子供のころ、プロ野球選手になりたいとか、そう思うのと同じ漠然としたもので。ただ、親孝行をビジネスにしたいという思いを既に社会人になっている先輩に話すと、「そんなことは事業としてだめだ。」「ボランティアでやればいい。」というような答えしか返って来なかった。
同じレールに乗ってしまうと同じような思考になってしまう。それは避けたいなと思いました。
――それからどういう経緯があって起業に至ったのでしょうか。
まず、カナダのバンクーバーに留学しました。その時の目標は人脈を作るということ。
留学カウンセラーとして留学する人のサポートをしていました。そして現地でカフェを始めました。
帰国して、一旦就職をしようと思い、同窓会ビジネスの会社に入りました。
20歳のときに、将来起業することを念頭に起業塾に入ったのですが、そこで講師をしていたのが同窓会会社の取締役の方でした。そのご縁で入社しました。
そのときに学んだコミュニティビジネスに関する様々なことは今でも大変参考になっています。
人間の属する最初のコミュニティは家族なんです。
家族の幸せが、社会の幸せに繋がっていくと思い、20歳のときに感じた親への思いとともに、親孝行の会社の立ち上げに繋がっていきました。
スリランカとの関わり
――スリランカとの関わりも深いとお聞きしていますが、元々スリランカと何かご縁がおありだったのでしょうか。
会社を作ることになって初めて行きました。
起業するにあたって、当初はフィリピン、ベトナムの人材を使おうと考えていました。
その時にこれからはスリランカの時代だと言ってくれる人がいて、その日のうちにエアチケットを買ってスリランカに行ったんです。
行ってみたら、日本が敗戦した後、サンフランシスコ講和条約の時に、当時のスリランカの代表(後の大統領)が「日本を植民地化するべきではない。」というスピーチをしたことがきっかけで、日本の植民地化を避ける動きになったことを知りました。それに大変感動し、スリランカと日本のかけ橋となれたらいいなと思うようになりました。
サンフランシスコ講和会議でのスリランカ代表スピーチ
1951年9月6日 サンフランシスコ講和会議。
第二次世界大戦に敗れた日本の処遇をどうするかという最終的な決定がされる場に於いて、ソ連は日本の主権を制限し、列島を分割して各国が統治するという案を出していました。
会議の席上、スリランカのジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ代表(後の大統領)は講和条約への賛成を表明、日本に対する賠償請求権を放棄すると話します。スリランカは、戦争中、日本からの侵略を受けた被害国としての立場だったにも関わらず、その理由として日本との長年の信頼関係などを延べた後、
仏陀の言葉を引用し「報復の連鎖では戦争は止む事が無い。憎悪は憎悪によって止むものではなく、愛によってのみ止むものである。」とスピーチしました。
会場はスピーチへの称賛の嵐。拍手は鳴りやまず、会場の窓が割れるほどだったと言われているそうです。
このスピーチをきっかけに、講和条約は成立し、日本は植民地化を逃れたのです。
今後の展望
――今後の展望などを教えてください。
photo スリランカ・スリーパーダ(聖なる山)にて
今後の展望について2つの軸で考えています。
まず1つはスリランカ。
スリランカの経済発展に貢献したいと思っています。
日本人にスリランカに行く機会を創りたいですし、スリランカから日本に行きたいという人達のサポートをしたいですね。
スリランカは光輝く島という意味で、宝石はじめ、資源が豊富でもあります。
セレンディピティという言葉の語源になったように(セレンディップ=スリランカの3人の王子という話から生まれた言葉)スピリチュアルな場所でもあります。そういう点も活かしていけたらと。
そして2つ目が親孝行ビジネス。
親孝行のプラットフォームになれたらいいなと考えています。
色んな業種とも組みますし、広がりはあると思っています。
いざ親孝行をしよう。と思っても、どこか照れくさくて出来ない事も多いと思います。
親孝行について考える機会が増え、家族の関係がより良くなれば、
日本という国はもっと素晴らしい国になるんじゃないかなと思っています。
――反抗していた親御さんとは現在はどんな関係ですか。
良好です(笑)仕事については詳しい話はしていなくて、スリランカなどで開発の仕事とかしているよ、と話しています。頑張れと言ってくれています。33歳までには地元の福岡に仕事の拠点を移したいと思います。
僕が33歳になる時、親は 66歳になります。
おそらく、まだ元気だと思います。
だからこそ帰らなくてはいけないと思っています。
元気じゃなくなった後に帰っても一緒に遊べないですからね。
一緒に海外旅行やゴルフやショッピング、色々とやりたい事があったら
やれる時にやっておきたいです。
やらない後悔だけはしたくないですからね。
いつか親が亡くなってしまうとき、その時に「最高の息子をもったなあ」と思ってもらいたい。そう思ってやっています。
もう、充分最高の息子だと思います。
――最後になってしまいましたが、青い鳥という会社名は、メーテルリンクの青い鳥の話のように「幸せの青い鳥は自分達の身近にあった。」というようなことからつけられたのでしょうか。
仰る通りです。そして、「青い鳥」という会社が、世の中の家族に幸せを運んでいけるような存在になりたいと思っております。
現在、青い鳥は神保町を親孝行の街にするために、定期的に神保町で親孝行イベントを行っています。
親孝行したいなあとお考えの方、今後神保町に注目しておくといいかもしれませんね。
20歳の頃から会社を興すために貯金をし、常に親孝行をビジネスにする
事を考えている中村さん。
既に日本一の孝行息子になっていると思います。
中村さんの今後のご活躍と青い鳥の活動に注目していきたいと思います!
住所:東京都港区北青山3丁目5−14 青山鈴木硝子ビル7F
代表取締役:中村 昌史