山下英介
送別会での「いつかまた」
先日我が社コールセンターのセンター長が退職されるため、送別会が開かれました。
別れを惜しむ声は少なめに、まるで普通の飲み会と感じるような送別会でした。
その時ふと感じたことがありました。
なぜみんな悲しまずに笑っているのでしょう。
寂しくないわけはないのですが、終始笑い合っているのです。
しかしそれは当然で、いつまでも悲しんでいる方が変ですよね。
でもなぜ変だと思うのでしょうか。
大人がいつまでも悲しんでいたらおかしいから? 悲しんだ顔なんて見せたら恥ずかしいから?
もちろんそれもあるでしょうが、何より笑って送りたいからなのではないでしょうか。
また別れは決して今生の別れではなく、また出会える可能性が十二分にあると思うからこそ、お互いに少しでも成長してまた再会できたら、という希望が含まれると思うのです。 大切に思う仲間や場所との別れはとても悲しさを感じますが、大切に思う強さが大きければ大きいほど「さよなら」より「ありがとう」と伝えたい。
そして「いつかまた」と思える、とても良い送別会でした。
喜怒哀楽
ここまでの文章でなんだかムズムズしたり、クサイ文章だなと感じた方も中にはいらっしゃいませんか?
もしそうであれば思惑通りです。
日本人の傾向なのですが、感情をあまり表に出すことを嫌う人種のようで、喜怒哀楽を薄く表現するよう、しつけられることが多いそうです。
「泣くんじゃありません!」「静かにしなさい!」私もそんなお母さんの言葉が思い起こされます。 同じような経験をされた方が多くないでしょうか。
確かにこの喜怒哀楽はあまり過剰に表現する大人がいるとびっくりしてしまいます。 成長するにつれて色々な経験をすると、だんだん感情は薄くなってきて、さらに社会に出てからはより一層表現しなくなってきます。 しかも先のブログのように感情とは裏腹な表現をする場面も多々あります。 しかし程度の差はあっても感情が無くなったわけではないし、感動する映画を観れば泣くし、お笑い番組を観れば笑いもします。
寡黙な人でも感情が0なんて人はいないのです。 実は中々に複雑なものが喜怒哀楽です。
ここで一つご覧の皆さんに質問です。
「恥ずかしい」という感情、どれに当てはまると思いますか?
「久しぶり」はどうでしょうか? 二つになってるという突っ込みはなしにして、ぜひ考えてみて下さい。
いかがだったでしょうか。 意地悪をしたようで申し訳ありませんが、何とこの感情はどれにも当てはまります。 その時の状況や心情などでいくらでも変化するのです。 面白いと思うと同時に怖さも感じますね。 だからこそ感情のコントロールは人生のコントロールにもなりえるのではと思いました。 人とのコミュニケーションは、この喜怒哀楽のコントロールで良くも悪くもなります。
「喜び」と「楽しみ」を多く、「怒り」と「悲しみ」が少ない人生を歩んで頂けたらと思います。 またお会いするのを楽しみにしております。 元センター長へ、恥ずかしがり屋からの遠回しな贈る言葉でした。