植村明美
朝起きて目覚めの1杯のコーヒー。午後にほっとひと息いれるためのコーヒー。
毎日の生活にコーヒーは無くてはならない存在ですが、コーヒーはいつから飲まれてこんなにも人々に密着し愛されてきたのか、ちょっと調べてみたくなりました。
コーヒーの起源については2つの有名な説があります。
エチオピア起源説とアラビア起源説。
エチオピア起源説
6世紀頃のエチオピア。ヤギ飼いの「カルディ」が山羊が全く疲れない様子を見て不思議に思っていたところ、山の中で紅い実を食べて興奮しているところを発見。自分もその実を食べてみたところ活力がみなぎる気がした。そのことを近くの修道僧に話したところ、僧たちは夜を徹しての修業の際、食べてみた。すると全く眠くならず、疲れず、朝まで修業に励めたため、これを修業の際に用いる秘伝の植物とした。
アラビア起源説
アラビアのモカの町の僧「オマール」は冤罪により追放され、山を歩くうち小鳥が赤い実を食べているのを見た。自分も食べてみると美味しいうえに気分が爽快になった。町で疫病が流行った際、祈祷とこの赤い実で病気を治したオマールはその功績により許され、モカの町に戻ることとなった。
カルディとかモカといった聞き覚えのある単語が並びます。
エチオピア説はキリスト教徒の間で、アラビア説はイスラム教徒の間で語り継がれていったが、どちらも伝承であり、史実とは異なることがわかっています。
ただ、コーヒーの木の原産地はエチオピアであると言われています。
コーヒーの伝播
どちらにせよ、このころからコーヒーの実は、疲れや眠気を吹き飛ばす薬として広く重宝がられており、宗教とも深く関わり、秘薬として大切にされていました。
そのため、イスラム寺院などではコーヒーの持ち出しは厳しく禁じられていましたが、長い年月の間にコーヒーは時に決死の覚悟で持ち出され、伝播されていきました。
エチオピアで発見されたコーヒーはアラビアに持ち出され、その後インドとセイロンに渡ります。
それからインド→インドネシア→オランダ→フランスと渡り、フランスからはカリブ海に浮かぶマルチニーク島に渡ります。
フランスからマルチニーク島に渡った物語は劇的です。マルチニーク島に駐在していたフランス海軍のド・クリューは、フランスに一時帰国した際、コーヒーの苗木をマルチニーク島に持ち帰り栽培したいと考えました。当時のフランスでも、コーヒーの持出しは厳しく制限されており、やっとのことで苗を入手し、船に乗り込んだものの、乗客に奪われそうになったり、海賊に襲われたり、嵐にあったり、やっとのことで切り抜けたと思いきや、今度は水が不足し、彼は自分に支給された飲み水を我慢して苗木が枯れるのを防ぎました。
こうしたクリューの努力の結果、マルチニーク島へ渡ったコーヒーは島に根付き、栽培されていくことになったのです。
同じ頃、南米のギアナでもコーヒーの栽培がスタートします。そして、1727年、国境紛争の解決のためギニアに赴任したポルトガル海軍士官のパルヘッタは、ギアナからコーヒーの苗を持ちだすという隠れた使命も負っていました。
当時は世界の貿易の主権はオランダがほぼ独占のように握っていて、コーヒーがアラビアからセイロンに渡ったのも、セイロンからインドネシア、オランダ、フランスと渡っていったのもオランダによるものでした。そこにポルトガルは何とか風穴を開け、当時ポルトガルの植民地であったブラジルでコーヒーを栽培し、輸出したいと考えていたのです。
もちろんギアナでもコーヒーの持出しは厳しく規制されており、しかも予想外に早く紛争は解決されてしまい、コーヒーの苗木は手に入らないまま、ポルトガルに帰らなくてはならなくなりました。
大層男前だったと言われているパルヘッタは、フランス人であるギアナ総督夫人に近付きます。
恋仲となった2人。夫人はパルヘッタが帰国する際のパーティーの席上、大きな花束をパルヘッタに贈りますが、この中にコーヒーの苗木が隠されていたのでした。
この苗木はブラジルへと渡り、世界最大のコーヒーを生産する基となり、その後ブラジルからハワイへと伝播していったのです。
コーヒーの伝播とともに各地でカフェも出現し、人々の暮らしに浸透していきました。
1554年にトルコのコンスタンディノーブル(現在のイスタンブール)に世界初のコーヒーハウスが開店、その後、ベネツィア、ペルー、ロンドン、パリとコーヒーの伝播とともにコーヒーハウスが出来ていきます。
次回はコーヒーハウスについての興味深い話をお伝えしたいと思います。
出典:
全日本コーヒー教会HP
coffee.ajca.or.jp
小川珈琲HP
https://www.oc-ogawa.co.jp/
UCC珈琲HP
https://www.ucc.co.jp/index.html