植村明美
コーヒーにまつわるエトセトラ。前回はコーヒーの歴史についてお話しました。
今回はコーヒーハウスについてです。
コーヒーは発祥の地アフリカから、中東、インドを経てヨーロッパへと渡り、各地にコーヒーハウスが出現していきます。
コーヒーの伝播には様々なドラマがありましたが、ウイーンに初めてコーヒーハウスができたときの話とされている伝承をご紹介します。
1683年7月。オスマン帝国の大宰相カラ・ムスタファは大軍を率いて進軍しウイーンを包囲しました。神聖ローマ帝国の皇帝レオポルト1世はなんとか脱出し、ウイーンから離れた場所で援軍を待っていました。
町の内部には守備隊が留まり、共にポーランドからの援軍を待ち、反撃の機会を伺う状態でありました。
しかし、いくら待ってもポーランド軍はやってきません。
そのとき、ウィーンに住むフランツ・コルシツキーという男がポーランド軍への連絡係に選ばれます。
彼はトルコ人と暮らしていたことがあり、トルコ語にも習慣にも精通していましたので、トルコ風の服を纏い敵陣がいる村を突破し、ポーランド軍に早期に援軍が欲しいという要請を伝えました。
ポーランド軍を率いるヤン3世は当初9月13日に攻撃を開始する予定でいましたが、9月12日、ウイーンに到着したその日のうちに総攻撃をかけることを決めました。
それを再度伝令として味方に伝えたのもコルシツキーだったのです。
わずか1時間ほどの戦いでトルコ軍は大混乱に陥り、散り散りになって撤退。よほど慌てて敗走したのか、後にはトルコ軍の残したものが多数残されていたといいます。
この戦利品は戦いで功績のあったものに分配されましたが、その中で大量のコーヒーの豆だけは、誰もが何であるかがわからず、馬の餌のようなものと考えられ手つかずとなっていました。
コルシツキーは、誰も要らないのであればその袋に入った豆を貰いたいと願い出ました。
人々は功績をあげたうえそんな得体の知れない物の処分も買ってでたコルシツキーに喜んで豆を与えたそうです。
そして数日後、ウイーン初のコーヒー店「青いボトルの店」が開店しました。店の主は他でもない、フランツ・コルシツキーでありました。彼は、コーヒーの美味しさも価値もわかっていたのです。
コーヒーはたちまち人々を魅了しコルシツキーの店は大成功を収めたのでした。
この話は史実ではなく、後から作られたお話のようですが、この頃ウイーンに登場したコーヒーハウスは、今でもウイーンの文化であり、その後ヨーロッパの各地へ広まっていきます。
1689年にはパリに初の純フランス風カフェが登場し(それ以前にも既にフランスでは上流階級がトルコ人の召使にコーヒーを淹れさせるなどしていた)1732年にはバッハが有名な「コーヒーカンタータ」でコーヒー好きの娘とそれを戒める父親のおかしなやりとりを通して、コーヒーが大好きすぎる人を皮肉る内容の歌劇を作りました。
どの国でもコーヒーの香りはたちまち人々の心を魅了し、元々がイスラム圏のものであったことや、キリスト教でイエスの血と称される「ワイン」に代わる飲物とされたことから「悪魔の飲物」であると言われたり、ドイツのように王様がコーヒー禁止令を出したり……。
それほどまでにコーヒーは人々を虜にするものだったのでしょう。
日本で初のカフェができたのは1888年(明治21年)。上野黒門町に可否茶館というお店ができましたが、あまりに先を行きすぎていたのか、数年で潰れてしまいますが、現在もこの店が開店した4月13日は「喫茶店の日」と認定されています。
グッドクロスが毎月1度、水曜の夜に開催しているふらっと夜セミナー。次回の開催は第1回で大好評を博したコーヒーセミナーです。
前回に引き続き、CPPで弊社紙成屋とユニットを組んで活動しているバリスタ 成田友彦さんが講師を務めてくださいます。
詳細・お申込みはこちら