内田絵梨
ゴールデンウィークも明け、いつもなら五月病に悩まされる人があふれる時期になりました。
今年はそもそも4月に新しいスタートが切れていない人が多いため、緊急事態宣言の解除明けに遅れてやってくるのでしょうか。
しわ寄せが怖いですね。
今回は本来すがすがしくスタートを切るはずだった新年度、4月始まりの謎についてのお話です。
年度とは
そもそも年度って何なのでしょうか。
辞書を引くとこのように載っています。
ねん-ど【年度】
暦年とは別に、事務などの便宜のために区分した1年の期間。「年度初め」「年度末」「会計年度」
デジタル大辞林より
1月から始まる新年とは別に、それぞれの目的に合わせて決められた1年の区切りのことを年度と言います。
国や地方公共団体の財政運営の秩序を守るために設けられた「会計年度」や、学校における学年の区切りとなる「学校年度」などが良く知られていますね。
日本だとどちらも4月1日に始まり、翌年3月31日に終わります。
特にこの「学校年度」の習慣がしみついているため、4月にはなんだか心機一転するような気がしますし、1年の大事な節目になっている人も多いのではないでしょうか。
手帳も1月始まりのほかに、4月始まりのものも用意されていますね。
一方で、諸外国では「会計年度」と「学校年度」は一致しないことが多いです。
中国では会計年度が1月始まり、学校年度が9月始まり、といった具合です。
それぞれの目的に合わせて決められた1年の区切りなので、当然といえば当然です。
「学校年度」に関していうと、夏休み明けに年度が始まる国が多い傾向があります。
ヨーロッパやアメリカなどの北半球は9月から、オーストラリアやアルゼンチンなどの南半球は2月や3月からといったように、新学年がスタートします。
これは子どもも農業の働き手・手伝い手として考えられていた時代、小麦の収穫や牧畜の出産で忙しい春から夏を避け、秋から冬にかけて学校に通っていたことに起因すると考えられています。
なぜ日本は4月はじまりなのか
そもそも年度の考えが日本に入ってきたのは明治時代のこと。
初めて会計年度が定められた1869年(明治2年)がその始まりといわれています。
驚くことに当初の会計年度は10月始まり!
新米の収穫後を見計らって決められました。
日本の貨幣単位が円になったのが1871年(明治4年)の新貨条例によって、米を税金として納める制度が無くなるのが1873年(明治6年)の地租改正によってなので、それ以前に導入された会計年度が米基準になるのも納得です。
その4年後の1873年(明治6年)には暦通りの1月始まりが会計年度に!
前年に日本の暦がグレゴリオ暦(新暦)に改暦されたことを受けての変更です。
さらにその2年後の1875年(明治8年)には7月始まりに!
これは地租改正による税の納期に合わせた変更です。
さらにさらに11年後の1886年(明治19年)に、今なお続く4月始まりに定められました。
なかなかの二転三転ぶりですね。
会計年度が4月始まりに固定された理由についてはいくつか説があるため、それをご紹介しましょう。
1. 日本が米の農業国だったため
最初の会計年度が新米の収穫後を見計らった10月始まりだったことからも分かりますが、当時の日本の主要産業は農業――特に米作でした。
明治期になって原則的にお金で税金を納めることが決められても、本質は江戸時代の年貢と変わりません。
納められる税の大部分、大元はお米によるものです。
この最大の収入源であるお米に合わせて、収穫を終え、換金し、税として納め、国の予算を組む、という流れに余裕を持たせた結果、4月始まりとなったとか。
2. イギリスからの影響
明治期に一番の経済力を誇っていたイギリスに倣って、という説です。
今でもイギリスの会計年度は4月始まりです。
ではなぜ、イギリスは4月始まりを採用しているのでしょうか。
ヨーロッパでは伝統的に春分の頃を一年の初めとする考えがありました。
もちろんイギリスもその考えを持った国の一つです。
イギリスでは長い間、3月25日(受胎告知の日)が始まりの日でした。
これが一変したのが1752年のこと。
この年、9月2日の翌日が9月14日になるという大改革が行われました。
長年使い続けるうちにずれが生じていたユリウス暦(旧暦)から、より精度の高いグレゴリオ暦(新暦)に改められたのです。
この改暦に伴い、3月25日だった一年の始まりは、今と同じ1月1日に変わってしまいした。実に3ヵ月もの繰り上がりです。
しかしながら、暦を変えたところで人々の生活はすぐには変えられません。
問題になったのが決算時期に関してです。
当時のイギリスでは「その年の支払いは年内に! 特別に年明け後1週間までは支払いの猶予を認める!」という商習慣がありました。
ユリウス暦のうちは「年初の3月25日+1週間」が支払い期限だったのに、暦が変わったことで3ヵ月も前倒しになるなんてたまったものではありません。
そこでイギリスでは習慣を変える必要のない4月始まりを会計年度として採用することになりました。
元々の猶予期間内であった3月31日を締め日とすることで混乱を避けたのです。
3. 財政赤字を解消するため
この頃の日本は富国強兵のスローガンの下、軍事力の強化を行っていました。
西欧列強に追いつけ追い越せで、軍事費がどんどん膨らんでいき、1884年(明治17年)には大赤字の危機に!
この状況を何とかしようとしたのが時の大蔵卿・松方正義です。
自分の任期中の赤字を減らすために、次の年度の予算の一部――酒造税を明治17年度の収入に繰り上げることにしました。
でも、そんなことをしたところで、その場しのぎなだけで次年度の明治18年にしわ寄せがいくのは明白です。
その年のために確保してある予算からお金がなくなり、やりくりが破綻してしまうのですから。
松方正義の施策はここでは終わりません。
持ってきてしまった酒造税の納期に合わせて、明治19年度の会計年度の始まりを4月に変更しました。
これは数字のマジックです。
こうすることで、明治17年度に予算の一部を持っていかれてしまった明治18年度は、本来なら12ヵ月で一区切りのところを、1885年(明治18年)7月から1886年(明治19年)3月までの9ヵ月に短縮することができます。
予算のつじつまを合わせながら、赤字を削減したのです。
ちなみに、このとき松方正義が指示した内容は、「公文類聚」(こうぶんるいしゅう)という国立公文書館所蔵の公文書に記録されています。
なぜ学校年度も4月始まりなのか
江戸時代の学びの場である寺子屋や藩校、明治初期の学校では、入学時期や進学時期について特定の決まりはありませんでした。
傾向として、寺子屋入学は気候の良い春先に選ばれることが多かったそうですが、いつでも入学でき、進級も個人の能力に応じるものだったのです。
1842年(明治5年)になると西洋の教育制度を倣って学制が発されます。
日本最初の近代的学校制度です。
この頃からしばらくは随時入学が残りつつ、高等教育ではドイツやイギリスをお手本に9月入学が主流となっていました。
大学ができ始めると、海外の大学にならって「一斉入学・一斉進級」というスタイルが導入され、9月入学、8月卒業の流れが一般化します。
これが一変したのは、会計年度が4月始まりになってから。
会計年度が4月始まりになったことで1886年(明治19年)に徴兵令が改正され、徴兵対象者の届け出期日がそれまでの9月1日から4月1日に変更されました。
これに伴い、士官学校の新学期も4月となりました。
危機感を覚えたのは教員養成のための高等教育機関である尋常師範学校です。
「9月始まりのままだと、壮健で学力がある人材が先に陸軍へ取られてしまう!」
そんな思いから、筑波大学の前身である高等師範学校が初めて4月入学制を採用し、多くの学校が後に続きました。
国や地方公共団体から補助金をもらっている学校は、年度を会計年度に合わせたほうが事務的に都合がよかったという背景もあるようです。
1890年(明治33年)には、小学校の学年を4月からとすることが明文化され、小学校、旧制中学校、師範学校などが4月入学に。
一方で帝国大学や旧制高校は9月入学と、入学時期が2つに分かれた状態が続きます。
ここからまたしばらく時間が空き、1919年(大正8年)には旧制高校が、1921年(大正10年)には最後まで9月入学を堅持していた帝国大学が4月入学となり、日本の学校年度は完全に4月始まりになりました。
おまけ
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参考:国立公文書館ニュース(あの日の公文書 4月1日会計年度の始まり) / ニッセイ基礎研究所(日本の学校はなぜ4月に新しい学年がスタートするのか? 諸外国はどうか?) / Manegy(なんで期の初めは4月なの? ) / シティ公認ガイドの寅七が送る シティを歩けば世界がみえる(第157回 1752年9月10日に何が起きたか?) / 桜の季節の入学式、明治初期は9月が主流 英独手本に(NIKKEIプラス1 2017年2月18日付)