内田絵梨
この時 黒羽二重 の 五所紋 の羽織を着流した、ひどくにやけた男が、金鎖の前に来て杯を貰っている。
森鴎外『青年』より
この一文を読んで、頭にぱっと浮かぶ男はどんな様子でしょうか?
薄笑いを浮かべているのでしょうか? それとも……?
「にやける」は「若気る」
「にやける」は漢字で「若気る」と書きます。名詞の「若気」を動詞化させた言葉なのです。
「わかげ」と読むと、若者の血気にはやる気持ちの意味ですが、「にやけ」と読むと別の意味となります。
にや‐け【若気】
1. 男色の相手。
2. 尻。特に、肛門。
3. 男がなまめかしい様子をすること。また、その男。にやけおとこ。
大辞林 第三版より
元々「若気」は鎌倉時代、室町時代頃に貴人の傍に付き従って男色の対象となった少年を意味していました。
この言葉を動詞化したのですから、「にやける」の意味もおのずと男性の様子を表わす言葉ということが分かってきますよね。
にやける
「にやける」を辞書を引くとこのように出てきます。
にやける
[男色の意の「若気」の動詞化。もと男子が、武事を忘れ、文学・遊芸にふけり、婦女子のように化粧をする意]
男性の服装・物腰などが必要以上に女性化していて、見た人に思わず、なんということかという感じを与える。
引用:新明解国語辞典にやける
[自下一]
男性がなよなよと色っぽいようすをする。
引用:明鏡辞典
冒頭の一文も薄笑いを浮かべているわけではないことが分かります。
実際、この文はこのように続くのです。
この時 黒羽二重 の 五所紋 の羽織を着流した、ひどくにやけた男が、金鎖の前に来て杯を貰っている。二十代の驚くべく 垢 の抜けた男で、物を言う度に、薄化粧をしているらしい頬に、 竪 に三本ばかり深い皺が寄る。その物を言う声が、なんとも言えない、不自然な、きいきい云うような声である。 Voix de fausset である。
垢ぬけた姿に、薄化粧、そして裏声。なよなよとしている風なのですね。
文化庁が発表した平成23年度「国語に関する世論調査」では、「にやける」を「なよなよとしている」の意味で使う人が14.7パーセント、「薄笑いを浮かべている」の意味で使うと回答した人が76.5パーセントという結果が出ています。
なぜこのような結果になってしまったのでしょうか?
「若気」の音の変化
「若気」は古くは「にゃけ」と発音し、「若気る」も明治時代頃までは「にゃける」と発音していたようです。
そして、「にゃける」を「にやける」と言い出した明治時代以降、「にやにやする」という意味でも使われだしました。
声を出さずに薄笑いを浮かべる様子を表した「にやにや」や「にやつく」のイメージから音に引っ張られたのですね。
今では多くの人が「にやける」を「薄笑いを浮かべる」という意味で使っているため、国語辞典に載る意味も、本来の意味と逆転してしまう日も近いかもしれません。
参考:文化庁広報誌ぶんかる / 語源由来辞典